善し悪しなんて見方で変わるしなんの根拠も価値も無い

 

お久しぶりです コフェクです

 

なんか僕は文章読むの好きなのでいろんな人のブログとか読むんですけどみなさんレイアウトとか拘っててすごいなって思うんですけど、別にこれ備忘録なんでレイアウト整えたらしません めんどくさい 意味ないことはしない

 

はい、というわけで社外人になって2ヶ月が経ちましたわけですけどもね、うん いろんなことがありました。 

 今までって当たり前に気の合う友達と仲良く楽しくしてたら、全てうまくいってましたよね?まあ部活とかしてる人とかはウザイ先輩とか当たり前にいたと思うんでちょっと例外なんですが、ここは僕の経験ベースで書くんでもちろん例外はあるってことは分かった上で読んでくださいね!

 

まず、社会って社会生活するために人が規則とか道徳という名の規制に従いながら生きるってことをベースに成り立ってると思うんですけど、これって普通にすごいことなんですよね。100人いれば100通りの生き方と考え方があって然るべきなんですがそれを押し込めてみんなまともな人間のフリして生きてるんですよね。

 

入社前は「自分の会社はきっと自分と同じようなバイブス、ある程度の考え、やり方、、、」上げ出したらキリがないけどそんな感じで思ってました。いっちゃ悪いですけどそういう活力みたいな集まりって思ってましたから。

 

でもフタあけたらどうだったと思います?

 

まるで話にならないクソ真面目なガキしかいない。

ほんの数人存在する仲のいい同期を除いて、ほとんど全員がタダの陰湿なガキでした。

話になりませんよね。でも勉強とかは得意なんでうまくやり過ごしてる。そこまた腹立ちます。

 

で、僕は一時期

「なんでこんな理解のないやつらしか同期にはいなくて、また勉強とかを真面目にするようなやつらしかいなくて、一方自分は真面目に勉強し続けたらするのは極力したくないし、できるならやらなくていいこと、やりたくないことはやらない方が絶対にいいって常に思ってる、こんな苦しい生活が続くの?」

 

そう考えて目から水が出る日もありました。

 

ですがここで

 

僕の友人に相談してみたら思わぬ真理と答えに辿り着くことができたのです。

 

ある彼はこう言いました。

 

『たしかに、周りの奴が優秀でつらいこともあるかもしれん けどそいつらも必死こいてやってる(必要以上に力を使って)ねんから

そいつらが息切れしてサボり出すタイミングでコフィが後方待機してるとこからぶち抜けたらいいんちゃうの?ずっと真面目にしてたやつが真面目にしなくなったら、え?こいつサボり出した?って思われるけど、初め真面目じゃなかった人が真面目にやり出すと、あれ、昔はまあ学生から社外人なりたてであれやったけど今はできるようなってんじゃん、になる方が得じゃない?そいつらが息切れした時にぶち抜けるために今できる範囲で努力してみたら?視界を広げていこや ビューやビュー」

 

この言葉に本当に救われた。

ずっと狭い世界、ここでいうと同期がクソ真面目なおかつ優秀、っていう世界しか見れてなかった、もっと広い軸、例えば時間軸であったり、はたまた違う労働環境においての自分の立ち位置の変化

 

なるほどって思わされました。

 

辛い時はこの ビュー View

 

この言葉を自分に投げて乗り越えてます

 

 

で、タイトルに戻りますが善し悪し、つまり何がよくて、なにがよくないのか、って本当にその人の視点と考え方で変わるってところなんですよね これ当たり前やけど忘れがち

 

人のためにじゃなくて

自分のために生きましょう

 

さっきツイートしてたギャンブルについての考察は次の記事で書きます 

 

では 

 

掛け合わせの効力

お久しぶりです。 

 

最近あまりブログに書くネタが無く?というか刺激的なことがあまりなかったので、筆を置いてしまっていました。

 

先ほどTwitterで『嫌われる勇気』というアドラー心理学を用いた著書についてつぶやこうとしたのですが、これについて長くなるので久しぶりにブログでも書こうと思いPCを立ち上げた次第でございます。

 

 

 

      『嫌われる勇気』

知っている人からすると聞き慣れた特に違和感の無い言葉かもしれませんが、よく考えると嫌われる、という言葉と勇気という言葉の掛け合わせって違和感を感じませんか?

 

例えば、一歩踏み出す勇気、とかだと一歩踏み出すというプラスの言葉と勇気というプラスの言葉の掛け合わせなので、一歩踏み出すことが勇気とつながっているために違和感はありません。

ですが、嫌われることは少なからずプラスの言葉で無く(嫌われる勇気の本文では嫌われることがマイナスだ、ということでは無くむしろプラスだという内容なので結果的にそう言った解釈は誤謬を含む可能性はありますがここでは一旦言葉単体の意味で持ち出してみましょう)マイナスの意味であり、勇気とは真逆にいる言葉な気がします。

 

では、なぜこのような題名で出版され、多くの人の手に取られ、ブームを巻き起こしたのでしょうか?

 

その答えはこの、【マイナスとマイナスの掛け合わせの違和感】にあるのです。

 

例えば、先ほど例に出した一歩踏み出す勇気、という題名の本、なんだか過去に見たことがあるような気がしませんか?

 

そうなんです。プラスとプラスの掛け合わせの言葉は、過去に擦り切れるほど使い込まれたありふれた言葉であるが故に人の記憶には残らない。なので昨今の出版界ではこの違和感のある題名がオーソドックスになってきています。違和感があるネーミングが人の気を引くことを理解しているが故の方針だと言えるでしょう。

 

たしかにこの方針は正解?というか合理的だと思います。私も書店に足を運び、読みたい、おもしろそう、と思う本はどこか題名が変わっていたり、興味を引くものであることが多いです。題名や表紙からまずファーストインプレッションを得て、そこから内容に入っていく、現代の本の販売体系を考えれば合点がいきますね。

 

この『嫌われる勇気』も、例えば『アドラー心理学 好き嫌いって気にしなくてもいい』とかだとなんだか逆にありふれているというか、インパクトに欠けますよね?(私のネーミングセンスが無さすぎます、すみません)

 

つまり、人の興味の初動は違和感によるインパクトであると、ことこの出版界においては鉄則とされているのでしょう。最近はそういった題名ばかりであまり興味が湧かないことも多く、書店に足を運ぶワクワクも少しばかり減っているような気がしています(それでも月1.2では通っていますが、、)

 

なので私も執筆する際はおもしろい?ネーミングの題名をつけて世に放ちたいと思います(その際はよろしくお願いします。当方ネーミングセンスのカケラもありませんので、、、。

 

 

追加 最近読んだ面白かった本

 

『道は開ける』 D カーネギー

 

かなり古い本ですが、自分がどういう思考法なのかどう言った事に問題を感じるのかなどについて深く考えさせられる一冊でした。おそらくこの本は読む人の気持ちや状況によって内容の理解がかなり変わるだろうなというのが感想です。あまりここで内容を書くとこの本に関しては価値が低くなる気がするので軽めにしておきました。

 

全体を通して言えることは、世代や場所を超えて多くの人に読まれている本は含蓄する所が大きいですね。学びのレベルが深いなと感じます。

f:id:cofeck_factor_V:20210211230048j:image

 

ではまた次回以降もブログの最後に面白かった本を(過去に読んだ本も含めて)紹介していこうかなとおもいます。またブログに関しても何か意見、コメントなどあれば書き込みよろしくお願いします。 

 

では!

 

 

『閃き』

こんばんは。  お久しぶりです。

 

コフェックです。

 

昔からのクセ?習慣なのですが、私は何故か考えごとをする時に歩きたくなります。

 

f:id:cofeck_factor_V:20210121193155j:image

 

ある日の歩数計です。別に大したことのない歩数ですが、歩き続けて考えごとをするのが私の常であり思考法の一つです。

 

足が棒になりますが、それと引き換えに歩いている時は私を深い思考の奥深くまで連れて行ってくれる感覚を味わえる瞬間があるのです。それに引き込まれて歩いている自分もいます。

 

 

以前、歩いている時にまだ私が子供だった頃に両親に連れて行ってもらったことのある焼肉屋のそばを久しぶりに通りました。なんてことない思い出の一つですが、子供の頃は今と違って一人で外食したり、友人と外食したりと言うのが無かったので子供ながらに胸を踊らせていたことをおもいだしました。子供の頃は目の前に起きることが自分にとって全てで、後先なんて考えず行動していたように思います。

 

いまはいろんなことを考えながら、未来のこと、また過去に犯してしまった過ち、そして今、自分が向き合わないといけないこと。

 

もうこの年まで生きていると、頭の中を空っぽにして何かに取り組むことは難しいように思います。そんな複雑で多くのことが絡み合う今の世の中だからこそ、夢中になれる何か、は意識的に自分で向かっていかないと見つけることはできないように思います。もう昔のように純粋な気持ちだけで物事に関わることはできないのですから。

 

 

とはいえ、なかなかそう簡単に見つかるものでは無いと思います。そんなあなたにおすすめの方法、お教え致します。

 

『本当に興味があることを見つけるために、いらないものを徹底的に省いてみる』という方法です。つまり、自分にとって夢中になれる、つまり必要なものを知るためには、自分にとって取るに足らないことをバッサリと切り捨てていく必要があります。興味もないのに定期的に覗くSNS、面白くないのに時間潰しのために見る動画サイト、興味もないのに無意識に流し見るテレビ番組、上げ出せばキリがありません。

 

これって実は「利用者がメディアを消費している」のではなくて、メディアによって利用者の時間が『消費』されている」なんですよね。

そういったコンテンツって簡単に瞬間的な快楽を得られるので、一瞬人は満足を覚えてしまうのですが、実はその快楽って本当の快楽ではなくて、一方的にコンテンツによって擬似的に感じさせられている偽の快楽なんですよね。

 

本当の快楽とは何かを考える必要があります。

 

いらないものを省くことで、自分自身と向き合う時間を嫌でも作り出すことができます。

自分にとって何が大切で、何が大切でないのかを考えないとあっという間に人生は終焉を迎えます。気付いた頃にはもう遅い、そうなってから嘆いても戻らないのが時間というもの。

 

もし、あなたが自分の人生に少しでも疑問や不満があるならそれは不必要なものに囲まれているからかもしれません。

 

勇気を持って、一度で構いません。バッサリと行ってみてください。何かがきっと変わります。

 

 

 

『僕が僕であるために』

何のタイトルなんだ、と思われたと思います。これは私が尾崎豊の歌の中で一番好きな歌のタイトルです。最近何故かCMに使われていて、びっくりしました。

 

https://music.apple.com/jp/album/%E5%83%95%E3%81%8C%E5%83%95%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB/904494198?i=904494200

 

歌詞


心すれちがう悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

別れ際にもう一度 君に確かめておきたいよ
こんなに愛していた
誰がいけないとゆう訳でもないけど
人は皆わがままだ
慣れあいの様に暮しても 君を傷つけてばかりさ
こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから

君が君であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
君は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

 

 

どんな理由があれ、目の前の勝負に、そして人生に、そして自分自身に、勝たなければならないのです。自分自身が自分自身たることを証明できるのは、勝利によってであると。何を勝利にするのかはそれぞれ違うと思います。是非、聞いてみてください。

 

僕が僕であるために 勝ち続けなきゃ

ならない 正しいことはなんなのか

それがこの胸に解るまで』

 

たしかに何が正しいのかそれは誰にもわかりません。しかし、何度も言っているように自分の選択が正解かどうかを確かめるのではなく、自分が選んだ選択を自分の力で正解にする、これが彼の言いたいことなんだと落とし込んで人生に活用しています。

 

若くして亡くなった尾崎豊が伝えたかったことのほんの一部かもしれませんが、令和に生きる私たちに多くのパワーをくれているのは間違いありません。

『バイオリズムは存在するか』

バイオリズム、という言葉をみなさんは知っていますか?

広義的には

 

バイオリズム(英: biorhythm)とは、心身の状態を表す3種類の波(「身体」、「感情」、「知性」)のことをいうが、科学的に実証されていない仮説にすぎず、疑似科学と見なされている。

 

f:id:cofeck_factor_V:20210120012136j:image

 

とされています。要するに身体と感情と知性の3つが人間の状態を支配していて巧妙に影響しあっているというもの。なるほどな〜と思う方もいれば、ん?なんのこと?と思う人もいると思います。しかし考えてみればわかりますが、嬉しい時って体も元気になりますし、逆も然りで体の調子が良くないと、嬉しい気持ちにはなりにくいですよね。そういう意味で関係しあっていることは皆様も理解できるとおもいます。

 

しかし、私のいうバイオリズムはそういった類のものではなく、生活中に起こる不可解な事象の偏りについての話です。例えば、(今日の朝はちょうど駅に着いた瞬間に電車が来て乗り換えもうまくいった、その後も友人にたまたま出くわしてそこから遊びに発展し新たな友人との出会いがありその出会いのおかげで、、、)とラッキーなことが連発した経験はありませんか?逆も然りで(うわ〜今日電車も乗り遅れて忘れ物もしたし、そのせいで学校も遅刻、もう行くのだるいしパチンコ屋で時間でも潰していくか〜で結局3万負けて帰宅)という経験もみなさんあるはずです。(ないですか、それはそれはすみません。私はあります)

 

これって運がいい、悪い、で片付けてしまえばそうなんですけど、なんだか変な感じもしませんか?上記の例を出すと電車に乗り間に合うか、乗り遅れるかで全ての行動が変わり、その結果も変わってしまう結果になっていますが、本来元を正せば、電車に間に合うか間に合わないかにしか、相違点は無いのにもかかわらず前者は良い出会いが、後者には3万円失うというバッドエンドが待ち受けているのです。

 

以上ここから分かるのは、些細な選択が自分の人生を構築していき、その結果もかわる、つまり悪い選択は想像以上の(想像もしてない)悪い結果をもたらす、ということです。みなさまも経験があるかもしれませんが、悪い出来事が起きる時って固まって悪いことばかり起きたりしませんか?逆も然りです。これってなんでなんだろう、そう考えた時からこのバイオリズム論について意識し始めました。バイオリズム、というよりは選択が(無意識の内に発生させる本来選ぶことの無かった)選択をさせる論の方が正しいのかもしれません。人生は選択の連続です。そう、あなたがこの記事をここまで読んでくれたこともあなたの選択です。その選択が人生規模で良い結果となるよう為になる記事を今後書き続けますので今後ともよろしくお願いします。では今日はこの辺で。

 

はじめに

初めての人ははじめまして、お久しぶりの方はお久しぶりです。コフェックです。

 

コファクタの方にも色々と書いていますが、それよりあきらかに長文になるなと思ったことや、強く伝えたい出来事があればこのブログに残していきたいと思っています。拙い文章ではありますが、結構な頻度で更新していこうと思っていますので皆さまぜひ、お手隙の時間で構いませんのでほっと一息ランチの後にでもはたまた寝る前のチルタイムにでも目を通していただけるとこれ以上の幸せはございません。

 

よろしくお願いします!